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2014年朝ドラ『マッサン』の舞台は仙台じゃないんですか

どうやら『マッサン』の舞台は仙台ではなさそうですね。
というのも「私の履歴書」を読んだらうなずけるのですが、昭和44年に宮城蒸留所が建設され、翌昭和45年に竹鶴政孝がニッカウイスキー会長に就いたとのこと。会長職って響きから想像するに、宮城蒸留所が建設された頃はきっとドラマにむくような出来事も少なかったでしょうしね。ましてこの頃、妻リタは亡くなっていたようですし。

ヒロインは初の外国人?

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ニッカウイスキー宮城峡蒸留所 工場見学に行ってきた際に、見つけたのが上写真。
ニッカウイスキーの創業者、竹鶴政孝とその妻リタの夫婦愛を描いた朝ドラ(NHK)がこの秋に放送されるようですね。
妻リタを演じるヒロインは朝ドラ初の外国人だとか(ヒロインはもう決まった? まだ?)。

私は「八重の桜」とか「あまちゃん」に続き、復興を支援したいとの背景から東北、仙台を舞台にしたドラマが企画されたのかと感じまして。そしてまた、どうして竹鶴政孝が新川に工場を建設したのかが知りたくなって、次の本で調べたわけです。

『マッサン』の舞台は仙台じゃないんですか

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知りたくなってたどり着いたのがコレ「私の履歴書(日本経済新聞社)」。

by カエレバ

この本を読んだ後に、以下のホームページを見てみたら「仙台」が一言もでてきません。

平成26年度後期朝ドラ「マッサン」制作のお知らせ<NHKホームページ>
http://www9.nhk.or.jp/dramatopics-blog/1000/172997.html

どうやら『マッサン』の舞台は仙台ではなさそうですね。
というのも「私の履歴書」を読んだらうなずけるのですが、昭和44年に宮城蒸留所が建設され、翌昭和45年に竹鶴政孝がニッカウイスキー会長に就いたとのこと。会長職って響きから想像するに、宮城蒸留所が建設された頃はきっとドラマにむくような出来事も少なかったでしょうしね。ましてこの頃、妻リタは亡くなっていたようですし。

大きくは、竹鶴のスコットランド修行時代(リタとの出会い)にはじまり、サントリーでのウイスキー作りからの独立、ニッカウイスキー立ち上げ以降の出来事がドラマの柱となるような予感がしています。

鶴竹政孝の言葉

言い忘れましたが私の履歴書は、自分の履歴を自分の言葉で記すスタイルとなっています。
竹鶴政孝は、冒頭次のように言葉を記しています。人柄が伺えますね。

竹鶴政孝の謙虚さが伺える言葉<私の履歴書(日本経済新聞社)から引用>
死んでしまってからでは記録もできなくなる。そこで自慢話にならないよう、事実だけをごく簡単にかいつまんでウイスキーづくりの体験をお話することにした。

竹鶴がなぜ仙台の新川に宮城峡蒸留所を建設したかを知ることができるのがこの言葉。

工場立地点にまつわる竹鶴政孝の考え<私の履歴書(日本経済新聞社)より引用>
ウイスキーの原酒工場をつくる場所は、空気のきれいなこと、付近に川のあること、夏でもあまり温度の上がらないこと、ピート地帯であることなどいろいろな条件があるが、(以降略)

さらに、竹鶴は宮城峡蒸留所に込めた思いが以下。

宮城峡蒸留所に込めた竹鶴政孝の思い<私の履歴書(日本経済新聞社)より引用>
その理想に近づけるために、私は仙台の近くのピート地帯にウイスキーづくりにぴったりの土地を見つけた。今そこに北海道工場より規模の大きい第二工場を建設している。来春(昭和四十四年春)より稼働する予定であるが、これが完成すればスコットランドからの技術導入はいちおう全部実現することになるのである。

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スコットランドの修行によって獲得した知見をもって竹鶴が選んだ新川。その自然の美しさ。将来、変わらぬ姿でウイスキーを作りつづけて欲しい。

そして、ウイスキー作りへの基本姿勢、苦労がにじみでている言葉が以下。

竹鶴政孝の胸を打つ言葉<私の履歴書(日本経済新聞社)より引用>
1.父は「酒は、つくる人の心が移るもんじゃ」と口ぐせのようにいっていた。また「酒は、一度死んだ米を、また生き返らしてつくるのだ」ともいっていた。
2.今から思うと、酒づくりのきびしさは、いつのまにか父を通して、私の知や肉になっていたようである。
3.ウイスキーの仕事は私にとっては恋人のようなものである。恋している相手のためなら、どんな苦労でも苦労とは感じない。むしろ楽しみながら喜んでやるものだが、その心境である。
4.機械や設備を請負った業者も、初めてのことばかりで、設計図のほかは、私の説明と監視が唯一の手がかりでしかなかったから、とまどったのは無理もない。私はスコットランドに留学していた際どんな小さなものでも絵に書いて、その説明をノートにつけていたが、このノートがなかったらウイスキー工場はおそらくできなかっただろうと当時しみじみと感じたことである。

この苦労を乗り越えて第一号が発売されたんですね。宮城峡蒸留所が建設される19年も前に。

記念すべき第一号<私の履歴書(日本経済新聞社)より引用>
昭和十五年の秋、ぎざぎざの線のはいった角びん、ニッカウ井スキーの第一号を発売した。

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すごいなぁ。ウイスキーって。今まで考えもしなかったけど、ウイスキーにかけられた長い年月と作り手の思いに感謝しながら味わうべきですね。

by カエレバ

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